徒然メモ

日々のぼんやりした考えをそのまま書き綴ります。

結論はじまりの文章は古典論理学的に推論を遡って批評できる。

「◯◯は□□である。」「なぜなら〜」という結論からはじまる文章があったとき、結論も理由も正しいと誤解することがあります。ただし、古典論理学の立場では理由の真偽や推論の妥当性から連鎖的に結論が真偽不明となる場合もあります*1

結論から書かれた文章の推論はたとえば以下の形式で表せます。

A

B ⊨ C
D ⊨ E

C ∧ E ⊨ A

最初の結論Aの真偽は不明です。何となく正しいと感じてしまいますが、論理学的には理由BCDEがすべて正しい場合のみ正しいです。

逆にいえば、正しくない理由を仕込んでも最初の先入観から正しいと思い込ませられます。著者の主張は結論Aではなくて「真らしい」理由BCDEの全部またはどれかかもしれません。

もっと複雑になっても同じです。以下の例では推論が多数かつ散在する上、結論と無関係なH、I、Jも紛れ込んでいます。この場合はA、H、I、J以外のどれかが正しくなければAは正しいか不明であり、H、I、Jの正しさはAと無関係です。しかし、Aが正しいとH、I、Jも正しいように誘導されてしまいます。

A

B ⊨ C ⊨D
E ⊨ F

F ⊨ G
D ⊨ H
I ⊨ J

D ∧ G ⊨ A

この文章も類似の形式に似せたつもりなので、どこかに妥当でない推論があれば論理的には出だしの主張も正しくないと思います。I ⊨ Jに相当する推論(余談)も紛れ込んでいるかもしれません。

蛇足です。上記はあくまでも古典論理学の話です。現実的には様々な論理体系があり、たとえば各主張に重みをかけて結論のそれらしさを判断すると思います。

*1:書いている人は論理学の素人です。